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映画の徒然メモ。他サイトでのログを移植中
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トニー賞、ピュリッツァー賞を受賞した舞台劇を、作者自身が監督して製作。舞台の映画化や大元に関わった人の思い入れは、不幸にも弊害になり得る場合も多い…ような気が。
しかしこの作品は素晴らしい。元が舞台だなあ、とは観ていて随所で思うことだが、舞台で見たらさぞかし素晴らしいのだろうと思うが、作品の醍醐味はこの映画化で伝わってくる。いや、伝わるという言葉では弱すぎるな。奔流、パンチ、何でもいい。とにかく圧倒される。ぶちのめされる。当たり前の感想しか出て来ない―――演技ってすごいな、と。

あらすじ>>>ダウト~あるカトリック学校で~(2008)
前年のケネディ大統領の暗殺や公民権運動の高まりなど激動と変革の真っ只中にある1964年。ニューヨークのブロンクスにあるカトリック学校でも、厳格な校長シスター・アロイシアスに対し、進歩的で生徒の人望も篤いフリン神父はより開かれた校風にしていくべきとの持論を展開していた。そんなある日、新人教師のシスター・ジェイムズは学校で唯一の黒人生徒ドナルドを呼び出したフリン神父の不可解な行動に不審を抱きシスター・アロイシアスに相談する。シスター・アロイシアスは2人が“不適切な関係”にあるのではと疑い、フリン神父を厳しく問い詰める。一方シスター・ジェイムズのほうはきっぱりと否定したフリン神父の説明に納得し、反対になおも頑迷にフリン神父への疑惑を深めていくシスター・アロイシアスの態度にこそ違和感を覚え始めるが…。

[オススメするタイプ]
・ゾクゾクする演技派対決が見たいぞ
・舞台劇とか好きだぞ
・プリンセスに興味ありだぞ(「魔法にかけられて」の話)

[オススメできんタイプ]
・セクシーさ求む
・アクション求む
・はっきりきっぱりな結末求む
・ウハウハにプリンセス求む(「魔法にかけられて」の話)

まあ、メリルとホフさん(蛇足ながらフィリップ・シーモア・ホフマンのことである)が組んだ時点で「スゲー!」と叫んでしまうものになるだろう、てのは誰でも予想できること。それがまた、ある意味予想通り。ある意味予想外。そしてある意味、予想以上。とにかくすごいのだ。素晴らしいのだ。
元が舞台、それゆえに後半の対決シーンには、一切邪魔は入らない。二人は密室にいる。他には誰もいない。BGMなどかからない。照明さえ最低限だ。二人以外何もない空間で、唯一溢れ出るのは、過剰に行き交うのは言葉!互いを言いくるめ、自らの正当性を叫び、目の前の敵を否定し、批判し、二人は言葉で殴り合う。あれは二人が演じるキャラクターの立場を駆けた言葉のスパーリングであり、役者である二人の対決だ。
暴力はない。シーンは変わらない。劇的な動きはない。なのにすべてが必要で、余計なものは何ひとつなく、ぎりぎりの蜘蛛の糸に乗って互いを突き落とそうとするかのような圧倒的な言葉の戦い!
…とか、よくわからん比喩を使ってしまうほどに素晴らしい。演技とはかくあるものなのだなあ、とため息をつくしかない凡人である身は、ため息どころか息をすることさえ奪われてしまうだけだ。

生身の人間、という言葉が浮かぶ。役柄に対しても、役者に対しても。あのシーンのメリルとホフさんを観て欲しい。いや、登場から退場までのすべてから目を離さず、味わって欲しい。本当に、こんな感想は瑣末過ぎて意味がない。観なきゃわからない。観ればわかる。それだけのこと、それがすべて。

メリルの登場シーンから、「ヤベェ超怖ぇ!!」とおののく生徒の気分になれる。あんな校長先生いたらさぞかし学校は息が詰まるであろう…というか、おとなしくしてマイナスの視線を向けられないよう頑張るしかない。悪い先生ではないのもわかるけど、そんなもん自分が生徒として在籍してたら慮れるわけがない。怖ぇえぇぇ!で終わりである。当たり前だが、メリルはすごい。ABBAを歌いながら波止場で踊り狂ってた人とは思えん…。プラダを着た悪魔にも見えん。
対するホフさんは、そりゃあの校長が君臨する学校に来たら人気出るよね!と思ってしまうソフトっぷり。生徒と仲良くすればいいじゃない!と親しみ度マックスな方針も、ガチガチな校長の方針も、それだけでは決して間違ってはいないのだけれどね、相容れないだけで。しかしホフさんは優しすぎてストーリーを知らなくてもゲイに見えるんだがいやそのホフさんが演ってるからかなとかは思わないんですけど。ゲフンゲフン。まあホフさんが神父という時点でそう見えなくもないのはゲイ噂の弊害でありますか、サー!

平行線過ぎてどちらかが倒れない限り平和はない…!みたいになってるこの二人の、間を行く者として登場するのがディズニー・プリンセスことエイミー・アダムス演じるシスター・ジェイムズ。この人もまた悪人ではない。校長のことも神父のことも親愛の念を抱き、尊敬している。簡単に言えば、「何とかして仲良くしてくれないかなあ、パパとママ…」と思ってる子供みたいなポジジョンだ。(ただしこの場合パパがメリル)なのでホフさんに対して疑惑を抱きつつ、正面切って貶せない。抱いた疑いは自分で晴らすのではなく、校長に預けて消してもらおうとする。立場と若さゆえのずるさ、弱さ、純粋さ―――これを体現する難役を、プリンセスは見事に演じたと思う。本当に、ちょっと力量が足りなければ「シスターその1」くらいの存在の耐えられない軽さになってるところだったような気がするぞ。プリンセスすごい。きちんと助演女優。

結論から言ってしまうと、タイトルの「疑い」はきちんとは晴れない。限りなく黒に近い白、すなわちグレーゾーンであるならば「疑わしきは罰せず」であるべきなのか?しかし芽生えた疑いは消せない。消せないが故にメリル演じる校長は、異常なまでの敵意を持って神父を弾圧していく。時に校長が常軌を逸しているようにも見え、時に神父はやはり有罪に見える。シスター・ジェイムズと同じく、観客も悩む。悩みながら観ているところに、またひとつの凄まじい現実―――生徒の母親からの言葉にパンチを食らわされるのだ。[「本当であっても構わない」]と言った母親の、あれは本音のひとつだろう。あまりに生々しい現実に、どれが真実であるかよりも、どれが正義なのかわからなくなる。校長は真実よりも(自身の)正義をとったようにも思えるのだけど。

神はお許しになるでしょう。その言葉は正しいのか。傲慢なのか。そのような小さなことは、神は気にしていないのか。噂と言う毒は羽根布団の羽なのか―――ならば回収するには?
本当の答えは出ないまま、観客は最後の校長の心からの吐露を聞く。そしてタイトルの「疑い」を思うのだろう。

これは答えを出す映画ではなく、考える映画だ。そして単純に、演技派二人の演技に圧倒される映画だ。アクションもロマンスも何もないけど、何かが確実にある。そんな作品。
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