映画の徒然メモ。他サイトでのログを移植中
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正しいタイトルは『ベンジャミン・バトン 一期一会』なので皆さんお間違えの無いように。すみません嘘です。(うん知ってる)数多のメディアで言われてるだろうが、これはいくら脚本家が同じでお蔵入りにした『ガンプ2』をちょこっと使ったよ、と言えども似すぎなんじゃねえのか…。絶対クイニーが「人生はチョコレートの箱のようなもの。開けてみるまではわからないのよ」ってベンジャミンに言ってても違和感無いどころかジャストフィットだと思います。
しかしながらあれです。貶してるわけじゃありません。フィンチャーがメタモルフォーゼしたよ!と、この長時間を見事に演出した腕前に感動。これは映画史に残ると思うぜ。長丁場過ぎて映画館の回転率は悪いだろうけど、上映終わってからも語り継がれると思います。CGの貢献度も含めてな。
あらすじ>>>ベンジャミン・バトン 数奇な人生(2008)
[オススメするタイプ]
・あの頃のブラッドよもう一度
・フォレスト・ガンプ好き
・ブラッドは年老いたらやっぱりレッドフォードさんになるか確かめたい
[オススメできんタイプ]
・ランチをお腹一杯食べた直後(タイプなのかこれ)
・徹夜明け(だからタイプ(略))
・ドキドキする派手なクライマックスが欲しい
しかしながらあれです。貶してるわけじゃありません。フィンチャーがメタモルフォーゼしたよ!と、この長時間を見事に演出した腕前に感動。これは映画史に残ると思うぜ。長丁場過ぎて映画館の回転率は悪いだろうけど、上映終わってからも語り継がれると思います。CGの貢献度も含めてな。
あらすじ>>>ベンジャミン・バトン 数奇な人生(2008)
1918年、ニューオーリンズ。ある一組のカップルの間に男の子が産まれる。しかし、その赤ん坊は80歳の老人と見まがうほど奇異な容貌をしていた。ショックを受けた男は困り果てた末、赤ん坊を老人養護施設に置き去りにしてしまう。そして、施設を営む黒人女性クイニーに拾われた赤ん坊はベンジャミンと名付けられ、献身的に育てられるのだった。成長するにつれ髪が増え、皺が減り、車椅子から立って歩けるようになるなど、普通の人間とは逆に若返っていくベンジャミン。やがて少年期を迎えた彼はある日、施設入居者の孫娘で6歳の少女デイジーと出会う。それは、これから様々な経験を積み壮大な人生を歩んでいくベンジャミンにとって、今後かけがえのない存在となる女性との運命の出逢いだった…。
[オススメするタイプ]
・あの頃のブラッドよもう一度
・フォレスト・ガンプ好き
・ブラッドは年老いたらやっぱりレッドフォードさんになるか確かめたい
[オススメできんタイプ]
・ランチをお腹一杯食べた直後(タイプなのかこれ)
・徹夜明け(だからタイプ(略))
・ドキドキする派手なクライマックスが欲しい
さて、冒頭から邦題について書いたけれども、本当は『ベンジャミン・ボタン』であるべきだと思う。buttonは日本語ではボタンのことだ。人名になると確かにバトンとかバットンとか書くけれども、今回は『ベンジャミン・ボタン』であるべきだった。そうでなくては、そもそも[冒頭のボタンの山で出来ているあれ]の意味も、ひとつしかわからない。そして[父親の職業―――工場の名前]が、洒落であることも。ひとつ目に関してはふたつ目があるから、途中で意味はわかる。でもタイトルが違っていたならば、最初から「ああ!」と思えた人は多かったのではないか。
フォレスト・ガンプはバス停で出会う人々に人生を喋りまくったけれど、ベンジャミンは日記を残す。それが月日を越え、ようやく読まれる日がやって来たときに終わろうとしているもう一人の人生。日記を書いた人間が、おそらくはもうこの世にいないだろうことは、最初から明白だ。それだけでなく、それを受け取った人―――ヒロインのデイジーにも時間が残されていないことからも、人生の儚さ、脆さ、そして永さが感じ取れる。
永さ、というのが矛盾しているかもしれない。でも、冒頭で死にかけている老婆を見せられた後に登場する、若いなんて言葉が色褪せてしまうほど鮮やかな少女ときたら!別に年をとるのが残酷だと言うつもりはない。この少女があの老婆になるなんて!と残念にも思わない。ただ、人間なら当たり前にそうなるだろう道を見せられることで、否が応にもその長さと永さを思うのだ。少女が大人の女になり、年老いていくまでの時間。圧倒的にどうしようもなく、確実に流れてゆくもの。その長さはひとりひとり違うけれども、真っ当に行けば人間はその中を一歩一歩進んでゆく。人間確実で平等なのは、絶対に誰もが最後は死ぬということだ。その当たり前さをデイジーと自分に思うとき、それが最初から逆回しであるベンジャミンの孤独が圧し掛かってくる。
彼は大変だったけれど、不幸せではなかった。それが救いだ。いや、映画だからね!と言っちゃおしまいで、親に捨てられたけれどクイーニーがいたし、デイジーに会ったし、ティルダ様にも会った(←ここ重要)。普通の少年の自立物語で言えば、荒くれた父親ポジションである船長にも出会った。
フィンチャーが描き出すのは、異常な生を受けた子と、普通の生を受けた周囲の人達が、「年月を重ねてゆく」ことで、とても不変で当たり前のこと。歴史は動くし、年表に載るべき事件も起こる。マクロだろうとミクロだろうと大事も小事もいろいろと起こり、時は過ぎる。変わらないものはなく、すべてが終わりに向かって動いている。
当たり前のことだ。
戦争が起きようと人は恋をするし笑うし喧嘩をする。そういう個々の人生が、ガンプよりも時代的背景色を排除したせいか、よりいっそう迫ってくるように思う。かといって、ドラマティックなことも激動の時代変化も、あからさまに描かれるわけじゃない。ただ淡々と、フィンチャーは描写する。それでいて観客を飽きさせない腕を、いつの間にか身につけていたのだなあ!(偉そう)
とりとめなく笑いなしで書いてしまった。ブラッドについて何にも触れていないってのに。
製作資金のほとんどを使っただろうCGは、素晴らしい。どうやって年老いた状態を撮ったのか?という製作側の流出映像を見たのだが、あれは生身の役者に別撮りのブラッドの顔を合成しているのだ…くらいは誰にでもわかるだろうけど。しかしブラッドの皺から髪から、すべてがCGだというのはわかっていても驚き。髪なんかわからねえ!別にブラッドは全身タイツになるわけでもなく、至って普通の格好でマイクの前に立ち、合成するべき演技をするのだが、その顔芸がすごい。当然相手役と相対しているわけでもないのに、役者って大変だな…そして老年期はやっぱりボブ(レッドフォードさん)だった。どうせならボブが演ればいいんじゃないかと思った。
中年以降は当然ブラッド自身が演じているが、ピチピチになればなるほど確かに(昔より)お美しい!いや、若さはもちろん実際若かった頃の方が自然ではあるけれど、年取って垢抜けた顔をベースにして若返らせている分スクリーンの中の方がカッコイイような気さえした。『リック!リック!!』と見ながらしつこく思っていたのだが、たぶんあれと比べて欲しくはないだろうな本人。少なくとも『ジョー・ブラックにお任せよろしく』くらいには若返っているので、あの頃の彼が懐かしい方は必見。一人だけ若返っていく撮影時、年取ってくケイト様よりもカメラの向こうでフィンチャーが舌打ちしてたと信じたいです。「いい気になんなよ!」「いやーセクシーすぎてごめんなさいね★」的な。個人的には盟友・ジョージ兄貴に自慢して欲しいですが。「お前には絶対無理な役だぜ!」と。2歳しか違わないくせにな。
話がずれた。共演者は誰も彼も上手くて、安心して観ていられる。特に船長はリチャード・ハリスの息子さん…だよね?ケイト様は言うに及ばず、まあちょっと20代は皺がなさ過ぎてテカテカしてたが演技力はさすが。日本の女優さんもあれくらいきちんと老けメイクをしてほしいもんである。
そのケイト様の少女時代を演じたエル・ファニング2.0(育ったから)が可愛すぎ。あんなにちっちゃかった子が!と親戚気分で観てしまった。立派に育って、ファニング姉妹は素晴らしいですな!
忘れちゃいけないティルダ様。この人の演技の上手さ、というものを勝手ながら感じてしまうのは、「心に何かを抱えながら半分自嘲するように笑ってみせる」微笑みなのですが、それが見られて嬉しかった。でも、ティルダ様なら[還暦越えてから海峡横断したって]全然不思議じゃないよな。その人を誰だと思ってるんだ!
で、ジェイソン・フレミングはとても味のある演技だったのだが、すまん「スナッチ!スナッチ!」としか思えんかったよ息子とのツーショットが。
退屈な人は退屈だろう。でも、これは観ておくべき映画だと思う。このタイミングで、間違いなく映画史には残る作品だろうから。
最後の最後にぶち壊しですが、ラストについて。
[『最後に(ベンジャミンがデイジーを)誰だかわかった』という感動すべきあのシーンと台詞…
赤ん坊がいい声で『デイジー』って喋ったらどうしよう
と思ったのは私だけですか。]
フォレスト・ガンプはバス停で出会う人々に人生を喋りまくったけれど、ベンジャミンは日記を残す。それが月日を越え、ようやく読まれる日がやって来たときに終わろうとしているもう一人の人生。日記を書いた人間が、おそらくはもうこの世にいないだろうことは、最初から明白だ。それだけでなく、それを受け取った人―――ヒロインのデイジーにも時間が残されていないことからも、人生の儚さ、脆さ、そして永さが感じ取れる。
永さ、というのが矛盾しているかもしれない。でも、冒頭で死にかけている老婆を見せられた後に登場する、若いなんて言葉が色褪せてしまうほど鮮やかな少女ときたら!別に年をとるのが残酷だと言うつもりはない。この少女があの老婆になるなんて!と残念にも思わない。ただ、人間なら当たり前にそうなるだろう道を見せられることで、否が応にもその長さと永さを思うのだ。少女が大人の女になり、年老いていくまでの時間。圧倒的にどうしようもなく、確実に流れてゆくもの。その長さはひとりひとり違うけれども、真っ当に行けば人間はその中を一歩一歩進んでゆく。人間確実で平等なのは、絶対に誰もが最後は死ぬということだ。その当たり前さをデイジーと自分に思うとき、それが最初から逆回しであるベンジャミンの孤独が圧し掛かってくる。
彼は大変だったけれど、不幸せではなかった。それが救いだ。いや、映画だからね!と言っちゃおしまいで、親に捨てられたけれどクイーニーがいたし、デイジーに会ったし、ティルダ様にも会った(←ここ重要)。普通の少年の自立物語で言えば、荒くれた父親ポジションである船長にも出会った。
フィンチャーが描き出すのは、異常な生を受けた子と、普通の生を受けた周囲の人達が、「年月を重ねてゆく」ことで、とても不変で当たり前のこと。歴史は動くし、年表に載るべき事件も起こる。マクロだろうとミクロだろうと大事も小事もいろいろと起こり、時は過ぎる。変わらないものはなく、すべてが終わりに向かって動いている。
当たり前のことだ。
戦争が起きようと人は恋をするし笑うし喧嘩をする。そういう個々の人生が、ガンプよりも時代的背景色を排除したせいか、よりいっそう迫ってくるように思う。かといって、ドラマティックなことも激動の時代変化も、あからさまに描かれるわけじゃない。ただ淡々と、フィンチャーは描写する。それでいて観客を飽きさせない腕を、いつの間にか身につけていたのだなあ!(偉そう)
とりとめなく笑いなしで書いてしまった。ブラッドについて何にも触れていないってのに。
製作資金のほとんどを使っただろうCGは、素晴らしい。どうやって年老いた状態を撮ったのか?という製作側の流出映像を見たのだが、あれは生身の役者に別撮りのブラッドの顔を合成しているのだ…くらいは誰にでもわかるだろうけど。しかしブラッドの皺から髪から、すべてがCGだというのはわかっていても驚き。髪なんかわからねえ!別にブラッドは全身タイツになるわけでもなく、至って普通の格好でマイクの前に立ち、合成するべき演技をするのだが、その顔芸がすごい。当然相手役と相対しているわけでもないのに、役者って大変だな…そして老年期はやっぱりボブ(レッドフォードさん)だった。どうせならボブが演ればいいんじゃないかと思った。
中年以降は当然ブラッド自身が演じているが、ピチピチになればなるほど確かに(昔より)お美しい!いや、若さはもちろん実際若かった頃の方が自然ではあるけれど、年取って垢抜けた顔をベースにして若返らせている分スクリーンの中の方がカッコイイような気さえした。『リック!リック!!』と見ながらしつこく思っていたのだが、たぶんあれと比べて欲しくはないだろうな本人。少なくとも『ジョー・ブラックに
話がずれた。共演者は誰も彼も上手くて、安心して観ていられる。特に船長はリチャード・ハリスの息子さん…だよね?ケイト様は言うに及ばず、まあちょっと20代は皺がなさ過ぎてテカテカしてたが演技力はさすが。日本の女優さんもあれくらいきちんと老けメイクをしてほしいもんである。
そのケイト様の少女時代を演じたエル・ファニング2.0(育ったから)が可愛すぎ。あんなにちっちゃかった子が!と親戚気分で観てしまった。立派に育って、ファニング姉妹は素晴らしいですな!
忘れちゃいけないティルダ様。この人の演技の上手さ、というものを勝手ながら感じてしまうのは、「心に何かを抱えながら半分自嘲するように笑ってみせる」微笑みなのですが、それが見られて嬉しかった。でも、ティルダ様なら[還暦越えてから海峡横断したって]全然不思議じゃないよな。その人を誰だと思ってるんだ!
で、ジェイソン・フレミングはとても味のある演技だったのだが、すまん「スナッチ!スナッチ!」としか思えんかったよ息子とのツーショットが。
退屈な人は退屈だろう。でも、これは観ておくべき映画だと思う。このタイミングで、間違いなく映画史には残る作品だろうから。
最後の最後にぶち壊しですが、ラストについて。
[『最後に(ベンジャミンがデイジーを)誰だかわかった』という感動すべきあのシーンと台詞…
赤ん坊がいい声で『デイジー』って喋ったらどうしよう
と思ったのは私だけですか。]
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